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朝鮮人差別について。

  • 三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ』世界思想社


「私たちがある種の関係性のなかにおかれると、個々人のなかの偏見や差別意識の有無とは無関係に、差別に荷担させられたり、差別を引き起こしてしまうことがある」
(みうら「序章 〈構造的差別〉のソシオグラフィにむけて」3ページ)


マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。

日本国籍を 一方的に おしつけ、うばいとる。

 さて、かんたんに歴史的事実から。在日コリアン弁護士協会 LAZAK編著『裁判の中の在日コリアン』現代人文社より。


 1910年のいわゆる日韓併合によって、朝鮮は日本の領土とされ、朝鮮人は一律に日本国籍を取得しました。その後、日本による朝鮮半島の植民地支配が行われていた間、日本国籍を有し、日本人と同じ「日本臣民」とされていました。たとえば、当時「内地」(大まかに言って、日本の本土)に住んでいた男子の朝鮮人は、選挙権・被選挙権ともに有していて、衆議院議員にのべ11名が立候補し、のべ2名が当選しています。そして、1945年の終戦後も7年間、朝鮮人日本国籍を有していたのです。
 しかし、日本は、1952年4月19日、法務府(現在の法務省)民事曲通達を出し、「サンフランシスコ講和条約が発効する1952年4月28日をもって、朝鮮人は、内地を住む者も含めて、すべて日本の国籍を喪失する」としました。日本は、朝鮮半島でずっと生活していた朝鮮人、日本に渡ったけれど終戦朝鮮半島に帰った朝鮮人終戦後も日本に残らざるをえなかった在日コリアン、そして、終戦後も自らの意思で日本に残った在日コリアンをまったく区別することなく、在日コリアンの意思によらず、また在日コリアンの意思をまったく確認することなく、在日コリアン日本国籍を一律に喪失させたのです。
(93-94ページ)


 これは不当なことです。


日本国憲法の10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」としているのに、行政の通達のみで在日コリアン日本国籍を喪失させたのは憲法違反ではないかという疑いは当然残ります。また、世界人権宣言15条2項が「何人も、専断的にその国籍を奪われたりその国籍を変更する権利を否認されたりすることはない」とうたっていることにも反します。さらに、諸外国に目を向けますと、英国がビルマミャンマー)の独立を承認するにあたり法律を制定して英国国籍との国籍選択権を与えた事例、フランスがアルジェリアの独立に際し在仏アルジェリア人に国籍選択権を認めた事例、日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国であったドイツ(旧西ドイツ)がオーストリアの独立に関して国籍問題規正法を制定して在独オーストリア人に国籍選択権を保障した事例等があり、これらの諸外国の事例と比べても、国籍選択権をまったく認めずに一律に在日コリアン日本国籍を喪失させたのは不当ではないかという意見も説得力があります。
(94ページ)


 この点については、「日本国籍確認訴訟」が おこっています(『裁判の中の在日コリアン』93-105ページ参照)。問題なのは、うえのような歴史的な事実を まったく ふまえないままに、日本国籍をもたない在日朝鮮人にたいして、なぜか敵対心をもつ日本人が いるということです。

戸籍の思想

 もっとも、日本国籍を「もつ、もたない」で制度上の差別を もうけることなく、ひとしく権利が保障されるならば、日本国籍を 喪失させられても、生活のうえで苦労させられることはありません。つまり、ここには二重の問題があるわけです。一方的に国籍を うばいとり、そして、権利を みとめない。
 そもそも、日本国籍を もたなくとも、日本国籍を もつ ひとと おなじく、あらゆる権利が保障されていても いいわけです。国籍というものは、なんのために あるのでしょうか。日本人の国籍観には、戸籍の思想が根づいていると いえるでしょう。


 杉本良夫(すぎもと・よしお)『「日本人」をやめられますか』朝日文庫を みてみます。


 日本では、国籍を持たない人に選挙権を与えると、地域を乗っ取られてしまう恐れがあるという意見もある。こういう発想の背後には、日本国籍=日本国民=日本人=日本民族=日本文化という方程式が見え隠れする。籍のないものは安心ならないよそ者であり、自分たちの仲間の一部とは考えられないのである。コミュニティーというのは、国家装置の束縛から離れ、人びとの自発的なつながりによって作られる場所であるはずである。国家官僚が操作する国籍という籍システムを頼りにして、地域の人びとが政治空間を組み立てようとする意思にとらわれるとき、コミュニティーはコミュニティーでなくなる。国家機構にとりこまれた末端組織になってしまう。
(127-128ページ)


 「国際化」や「多文化共生」と いわれて ひさしいわけですが、どちらも戸籍制度を 維持するかぎりは、形式的なものに とどまってしまうでしょう。排外主義から自由になれないからです。戸籍制度は、ひとを わかつものです。人間を 分断するものです。天皇制を 支持するかどうか。家族制度を 支持するかどうか。性別二元論(性別主義)に 同意するかどうか。わたしは、天皇制も家族制度も、性別主義にも反対です。戸籍など いりません。戸籍制度を ありがたがるのは、ドレイ根性です。

国籍を おしつけ、戸籍によって きりはなす。

 ひとつ、おさえておくべき点があります。朝鮮人日本国籍を おしつけた日本は、なおかつ、朝鮮人と日本人を区分したということです。


 小熊英二おぐま・えいじ)『日本人の境界』新曜社を みてみます。


併合当時の朝鮮人は、保護国だった韓国時代に制定された民籍法にもとづく民籍に編入されており、さらに1922年には総督府の制令として朝鮮戸籍令が公布されたが、いずれも朝鮮のみの法律で内地の戸籍法とは法体系が別であった。すなわち、朝鮮と内地では戸籍の裏付けとなっている法が異なっていたのであり、両者を連絡する規定を設けないでおけば、わざわざ朝鮮人の本籍移動禁止を法文上に記さなくとも、内地―朝鮮での移籍手続きが存在しないことになる。…中略…
 このように、国籍のうえでは強制的に「日本人」に包摂しつつ、戸籍によって「日本人」から排除する体制が出来あがった。この体制は台湾にも反映し、やはり内地の戸籍法を施行しないという手法をとって、台湾人の本籍移動が実質的に禁じられることになる。地域レベルのみならず、個人レベルにおいても、朝鮮と台湾は「日本」であって「日本」でない位置をあたえられたのである。
(161ページ)


 なぜ「国籍のうえでは強制的に「日本人」に包摂しつつ、戸籍によって「日本人」から排除」したのか。それは、「日本人」と対等な権利を あたえたくなかったということです。その「日本人」とは、権力が さだめるものでしかありません。

植民地主義は終わらない」

 「ポスト・コロニアリズム」という表現があります。いろいろな訳しかたがあります。「植民地支配以後」「継続する植民地主義」「脱植民地主義」「植民地主義は終わらない」…。
 表面的に植民地支配が おわったということになっていても、そのあとに、のこりつづけている問題があるということです。解決せずに放置されている問題が のこっているかぎり、「植民地主義は終わらない」ということです。たとえば、「歴史精算」というのは、放置されてきた過去の問題を 解決するという意味です。それが解決されないことには、それは「過去の問題」などではなく、現在の問題でありつづけるということです。問題と むきあうことでしか「継続する植民地主義」を おわらせることはできないのです。それが責任を はたすということです。うんざりしているのは、支配され、抑圧されてきた側です。それを わすれるべきではありません。

制度上の差別に のっかった「差別発言」

 さて。差別と いいますと、「○○は××だ」という「偏見に もとづく発言」が問題にされます。けれども、たいせつなのは、現実にある制度上の差別(構造的な差別)を 解消していくことです。もちろん、偏見は なくしていくべきです。けれども、意識や心の問題を 問うことで差別を解決できると おもってしまうならば、不平等な関係性が まったく みえなくなってしまいます。
 なぜ差別発言は問題なのか。それは、制度上の差別に のっかったうえで、安全なところから攻撃するという、集団リンチになっているからです。もし、対等な関係であるならば、どれほど ののしりあったとしても、それはケンカでしかありません。平等な関係であるなら、いくら批判しあったとしても、それは当人どうしが納得していれば、それは問題でもなんでもありません。


 だれかが、自分たちの ありかたを まったく 問うことなしに、なんらかの属性を もつひとを さげすむ。それが差別行為です。属性を もたないという特権的な立場から、ある集団を さげすむのは、安全圏からの攻撃であり、リンチです。卑怯な ふるまいです。おくびょうだから、日本人が してきたことを まったく無視して、朝鮮人を ののしるのです。日本社会のありかたに疑問を 感じない大多数の日本人が支配している社会で、まったくもって ほそぼそと生活している朝鮮人を 差別し、暴力を ふるうのは、恥しらずな ふるまいです。

平等のために

 さいごに、野村浩也(のむら・こうや)編『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』松籟社(しょうらいしゃ)を みてみます。


…植民者が権力を失うことは、植民者が植民地主義と訣別する可能性を開くことでもある。しかもそれは、被植民者が植民者に取って代わることをけっして意味しない。なぜなら、植民地主義との訣別とは、植民者と被植民者の双方のカテゴリーを消滅させることにほかならないからだ。
 すなわち、「植民地主義に訣別しよう」という呼びかけは、「平等を実現しよう」という呼びかけでもあるのだ。…中略…つまり、平等の実現とは、植民者に訣別することと、被植民者に訣別することとを、同時に実現することなのだ。そして、植民者も被植民者もともに姿を消したとき、植民地主義は終わりを告げることとなるであろう。
(のむら「はじめに」10ページ)


 平等を実現する。植民地主義を 解消する。その目標を、あきらめることはできません。あきらめるべきではないのです。



 この記事は「朝鮮人差別について」という題にしましたが、これは あらゆる差別にも いえることです。不平等が問題なのです。



 戸籍制度を といなおすための本:


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