hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

冷静で いられるということ。

 そんなの どうでも いいじゃん。関係ないし。ほっとけば いいんだよ。


 そんな無関心。アッケラカン主義。もしかすると、それも必要であるかもしれない。けれども、「気にするほうが おかしい」とは いえないはずのものです。いってはいけないことです。


 くだらない権力者がいて、ろくでもないことを いっている。それにたいして、「ふん。ばーか。」で かたづけるのも ひとつの見識だろうけれども、そうではなくて「ふざけるな!」と批判するのも必要なことだ。その都度、自分の思想信条によって批判したり、アッケラカン主義を 発揚したりすれば いいことだ。どちらにも、おなじく理念がある。


 こういうときに、いちばん気にさわるのが「気にするほうが おかしい」という イヤミな発言だ。さも、自分は冷静で いられる ご立派な人格者のような口調が、わたしは きらいです。


「冷静な対応を」「冷静に対処」などなど。最近、流行語になりつつある。


「冷静に」と、ゆーてる人は、自分は感情的じゃなくて冷静なんだと おもってるようだ。おめでたい。愛国心という感情に まるまる のみこまれてる自分の すがたが みえないわけだ。みえても、それが ぶざまな すがたには みえなくて、ほこらしい すがたに みえるんでしょう。まったく おめでたい。
…中略…
「冷静に」と、のたまう人こそ まず最初に うたがいましょう。そして、「おめーだよ」と つぶやこう。その練習のためにも、 とりあえず わたしにむかって「おめーもだよ!」と つっこみましょう。ことばは はねかえってくるものですので(つまりは、つっこんだ あなたにも? 笑)。


 うえの記事に、タカマサさんからトラックバックを いただいた。

 とくに「そうだなあ」と実感したのが、つぎのコメントでした。


■ところで、ハラナがおもうに、「冷静な対応」うんぬんをいいだすがわが、実際に感情的かどうはか、実はあんまり重要じゃない気もする。■だってさ、セクハラ問題が露見したとき、「冷静に冷静に」って、いいはるのは加害者とそれをかばうがわでしょう。このての問題、おおかた、落ち度があるがわが無自覚/無反省なのに対して、被害者がわが感情的になるほかない、って構図になっている。韓国や中国の「反日」感情も、基本はそこにあるでしょ。■でもって、セクハラ・オヤジや日本は、被害者女性や被害国からの告発にあわてふためいて、くるしくなって、やっと「冷静」さをうしなうわけ(笑)。■そんな、あとで動揺する宿命にある「冷静」さなんて、なんの意味もないわけで、単なる鈍感さ、ニブさでしかないよね。「冷静」さをうしなうほどの認識にまで、おいこまれていないだけの、卑劣で破廉恥な心理的優位なんて、あとからふりかえれば、たんなる汚点でしょ。

 とくに、つぎのフレーズ。

  • 「あとで動揺する宿命にある「冷静」さなんて、なんの意味もない」「単なる鈍感さ、ニブさでしかない」
  • 「「冷静」さをうしなうほどの認識にまで、おいこまれていないだけの、卑劣で破廉恥な心理的優位なんて、あとからふりかえれば、たんなる汚点でしょ。」


 冷静で いられるということは、無自覚だということでしょうね。自分が やっていることに。あるいは、批判されても びくともしないほどに権力を 独占しているということでしょうね。


 しがない労働者が、自分たちの労働条件を 改善させようと はたらきかけるとき、まともに むきあおうとしない経営者がいるわけです。いくら批判されても冷静なまま、「かわりなら いくらでもいる」と。


 どうしても ゆるせないことだけど、自分が批判している相手は、平然として暴言をはく。


 やるせないというのは、こんなことを いうのでしょう。ほんとうに いやになります。


 このブログの方針は、おかしいことは「おかしい!」とストレートに批判するということにあります。「学習された無力感」と いわれたりもしますが、この社会では「あきらめ」が支配的になってしまっている。「どうしようもない。無理だ。世の中、こんなものだ。」


 いや いや いや いや いや。それでは いけませんて。


 とりみだしてもいい。かっこわるくてもいい。失敗してもいい。だから、いやなことは いやだと いいましょう。学習された無力感を すてて、抵抗力を 学習しましょう。抵抗する力を 身につけましょう。


 ゆさぶる。ぶるぶる。ぶるるん ぶるるん!