hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

新型コロナウイルスと ユーチューブ(疫情之下的YouTube)。

 新型コロナウイルス(新型冠状病毒)がニュースを さわがすようになって、つまりは「人から人への感染(人传人)」が指摘されるようになって、中国の情報を あれこれ みてきました。わたしは中国で生活したことはないし、Weibo(微博)のアカウントもありません。Wechat(微信)のアカウントは ありますが、ともだちが いません。なので、基本的には ユーチューブを みてきました。とくに、武漢(Wuhan=ウーハン)が封鎖されるというニュースが ながれてから。漢語(いわゆる中国語)は、そんなに できるわけじゃないし、日常会話は けっこうできるよというレベル。長文を よむ気力も語学力もない。だったら動画だ、というわけです。


 中国ではWeiboで情報発信することが一般的のようです。けれども、あえてユーチューブで情報発信している人もいます。中国ではツイッターフェイスブック、ユーチューブ、インスタグラムなど欧米のメディアツール(ソーシャルメディア)は中国国内からアクセスできないように制限されています。けれども、壁ごえしてアクセスしている人は たくさん いるんですね。壁ごえを 漢語で「翻墙(ファンチアン)」と いいます。中国在住の日本人も、よく壁ごえされてますね。「翻墙者: GFW墙外网址导航」という、壁ごえした人用のウェブサイトがあったりします。


 そんなことで、中国のユーチューバー、たくさん います。今回は、武漢のユーチューバーを ご紹介。あと、とても参考になるメディアのユーチューブチャンネルも。 


 武漢在住のユーチューバーさん、罗宾(ロビン)。罗宾 - YouTube


【武汉肺炎疫情扩散】武汉人谈“武汉肺炎”
(2020年1月20日


“武汉肺炎”最新消息 我们封城了 | 武汉医护人员透漏的消息
(2020年1月23日、武漢が閉鎖された日)

 毎日動画をアップしています。「武漢」などの用語がタイトルに はいっていると、広告収入が えられないそうです。ユーチューブとしてはデマを 防止する意図があるのかもしれませんね。「封城」という「都市を閉鎖する」という意味の用語が 今回 中国で つかわれていて、最初は「封城日記」と題した動画を アップされていました。あるころからは「封城」の頭文字をとって「FC」(FengCheng)と表記されています。武漢が閉鎖された当初は ちょっと のどが つらかったそうで、家族から 感染を うたがわれ、自宅の部屋で隔離されていて、食事も部屋のまえに おかれ、部屋から ほとんど でられない生活を おくっていました。そのあとは、電動バイクで外出したり、ドローンを とばして武漢の風景を 撮影したり、買いものしたり、毎日、毎日 たのしい動画を アップされています。もちろん、つらいことを はなしていることもあります。わたしが かいたコメントに返事を くれたりします。マメです。
 なお、武漢で 病院に 人が殺到している様子が 日本でも報道されていました。途中からは 直接 病院に いくのではなく、まず社区に連絡するという方式になったそうです。

【武漢封城日記】疫情封城第9天,政府未能解決武漢市民困難
(2020年1月31日の動画で説明あり)



 武漢在住のユーチューバー(というか3人家族だけど…)、涛鸡公(タオジーゴン)涛鸡公 - YouTube
 まるまるした人がタオジーゴンさんです。ある日、外出して 野菜を たくさん かってかえってきて 配偶者さんには「ヒーローだ」と いわれていましたが、こどもさんには「ヒーローって感じじゃない」と いわれていました。毎日、毎日、とくに料理や食事の風景を アップされています。ほのぼのしていますね。

第三十七天 涛鸡公磨菜刀 小泽认为磨刀石是豆腐 青椒炒鸡蛋
(2020年2月28日)

武漢が閉鎖されて、どれくらい日にちが たったんだろう? そんなことを おもったら、このチャンネルを みると わかります。たとえば、2月28日の動画には37日め(第三十七天)と かいてあります。こどもさんは、ずっと外出していません。


 武漢在住の記録動画制作者と よびたくなるような蜘蛛猴面包(クモザルパンと訳していいのか?)さん。蜘蛛猴面包 - YouTube ウェイボーのアカウントもあります。https://www.weibo.com/jackass
 この人は、ボランティア活動と映像記録活動を されている。最初は、医療人を 送迎するボランティアをしていました。それから、病院に無料で食事を 提供する食堂の紹介、病院で医療人の散髪をするボランティアの紹介などなど、たくさんの人たちの活動を 記録しています。みなさんに、今回のことが すべて おわったら なにが したいですか?という質問を なげかけています。いろんな回答が でてきます。

武汉封城日记 13 - 小区封闭后的生活,一场无法赴约的婚礼
武漢が封鎖されるだけでなく、団地の敷地内しか外出できない状態にある市民が もう うんざりだと おこっている場面がでてきます。おわりが みえないからこそ、ストレスも たいへんなものでしょうね。団地の敷地は もともと柵で かこまれているようですが、正門以外は閉鎖され、やがては正門で出入りが管理されるようになり、ひと家族に ひとりだけ、3日に1回しか外出できないという状態になり、やがては仕事などでないかぎりは通行できなくなったという ながれだったようです。買いものは正門でしています。人が たくさん あつまらないように、事前連絡制のようです。高層マンションで くらしている人が ほとんどという居住スタイルが、人の移動を 管理するうえで 役だっているというか、機能しているわけですね。もちろん、それって つらいわけですが。


 看護師をしている配偶者さんが感染してしまった人が闘病/看病の様子を 動画で公開するという、なんとも いえないことを されている人もいます。ユーチューブでは「二更 - YouTube」というメディアで紹介されています。撮影者は海棠(ハイタン)さん。


【武漢】被感染的急診科女護士 Episode 1
内容が つらいので、ずっと みなかったんですが、だいぶ回復したらしいことが わかってから 全部 みました。つらいです。ほんとうに。みているだけで。
英語字幕が つくので、英語でコメント つける人が かなり いますね。【Wuhan】Coronavirus Diary - YouTube


 漢語メディア、鳳凰衛視 Phoenix TV - YouTube
武漢來信」というシリーズが おすすめです。いろんな人にビデオチャットでインタビューしています。蜘蛛猴面包さんも登場。医者や看護師、ボランティアなどなどが とても具体的な はなしを しています。


《名人面對面》武漢來信(十四)中南醫院張笑春(下):一個醫生的真話 20200225【下載鳳凰秀App,發現更多精彩】

なかでも、張笑春(チャン シアオチュン)医師のインタビュー2回めは、世界中に紹介されるべき内容であろうと おもいました。CPR検査が陰性だからといって安心してはいけない、CTを 重視すべきだと警告したそうです。最初はWechatに かいただけだったようですが、張医師の提案は当局にも ききいれられたということで、すばらしいことだと おもいます。病院に迷惑を かけるかもしれないと いって辞表を かいたけど、病院長は 心配しなくていいと いったそうで。


 さいごに、日本で生活している武漢人の活動を 紹介した動画も。

在日募集物资的武汉人,向买不到口罩的日本出租车司机道歉【我住疫情特别篇】

人気番組「我住在这里的理由(私がここに住む理由)」の特別編。同級生が 武漢で なくなったという はなしが でてきます。新型コロナウイルスによってではなく、人工透析の治療が継続できずに、とのことです。


 とりあえず、わたしが紹介したいのは、こんな感じです。しかし、アカウントは かなり たくさんあるので、うえに紹介したチャンネルの動画を みていたら、ユーチューブのアルゴリズムが どんどん紹介してくれるでしょう。



4月3日 追記。

 BBCが蜘蛛猴面包さんと海棠さんを 紹介する動画を 公開しています。日本語字幕版もあります。

泣き叫ぶ妻、ネットで助け求める人も……新型ウイルスで封鎖続く中国・武漢 50日間の記録
(ただ、日本語字幕版はタイトルが変です。もとの動画は「肺炎疫情微紀錄片:武漢「封城」之後」という題なのに。)

 ながいこと闘病生活を おくっていた看護師さんが退院され、14日間ホテルで隔離生活を おくったのち、ついに帰宅されました。ほんとうに おつかれさまです。

【武漢】被感染的急診科女護士 Episode 25: 【回家】

 武漢での閉鎖生活の様子を つたえる記事がでています。2月29日の記事なので、1ヶ月まえの様子です。
news.livedoor.com

 武漢は、4月2日で封鎖後70日めでした。予定では、4月8日に 封鎖が 解除されます。すでに車の交通量も ふえてきているようです。

「この社会が うみだした」ということについて。

 なにか事件や問題が おきているとき、これは特殊なことではなくて、あのひとたちだけの問題ではなくて、この社会が、この国の政策が ひきおこしたのだ、と論じることがある。背景にあるものを よみとくということは大事だと おもう。じっさい、背景というのは あると おもう。社会のなかに、ものごとは ある。それは そうだ。


 だけれども、なんでも かんでも、そして、ただたんに、「この社会が うみだした」とだけ いっていれば いいのだろうか。



 津久井やまゆり園の事件。あれは、この社会が うみだしたのか。そうかもしれない。でも、そうだとばかり いっていては いけないと おもう。だって、そういう「論評」というのは、要するに、「これからも こういうことは おきる。覚悟しておけ」というような、「おどし」になってしまう。あんなこと、これからも おきてしまっては いけないのだ。もちろん、テロを 何度も経験している地域は この世界には あちこちに あり、毎日、メディアは かなしいことばかりを 報道している。


 けれども、わたしは覚悟なんかしたくない。だから、これからの展望を のべていくことも 同時に 必要だと おもうし、おどすような 口調で ものごとを かたるようなことはしたくない。


 大事なのは、この社会が どの方向を むいているのかということ。それを よく みきわめないといけない。そして同時に、自分は どのような社会で くらしたいのかということを しっかり かんがえて、社会にむけて発言していかないといけない。恐怖のなかで いきていきたくはない。でも、こわいことが いっぱい ある。そして いつの日か わすれてしまう。おもいだすのが つらいことも ある。ああだ こうだと ぐるぐるする。かなしい。


 けど まあ、やれることを やる。いやなことは いやだ。のんびり いこう。

せきこむ ひとの そばで。

 京都で 介助の仕事を するようになって、もうすぐ 6年になる。まあ、いろいろあるわね。


 ほかの介助者が していることを みていると、「わたしは やらないなあ」ということがある。たとえば、せきこんでいる ひとの背中を さする。わたしは しない。意味が ないように おもえるから。さすったら ましになるとは おもわないから。なります? どうだろう。


 せきこんでいる ひとの そばで、なにもしない自分、というのも、なんだか きまずいというか、よろしくないように 感じてしまう。そういう感情はある。なにもしないのか、と。



 で、最近 わかったのは、せきこんでいると、体ごと うごいてしまって、それが いちいち反動として しんどそうだということ。だから、そういうときは 背中に 手のひらを あてて、ささえることにした。反動が やすらぐと、ちょっと 楽だろうから。ちょっとは ましだろうから。


 こういうのは、たぶん、おたがいにとって いいこと。わたしも、自分のことを 冷淡だなんて おもわなくて すむ。意味のあることを していると 感じられる。そのひとも、ちょっとは楽になるだろう。よかった。

集団の とらえかた。問題の とらえかた。

 「日本人」にしても、なんにしても 人間を 集団で くくるとき、そのカテゴリーというのは ひじょうに あいまいなものである。明確に 線を ひけるものではない。けれども、なにか必要や目的があって、人間を 集団で くくることがある。たとえば、多数派と少数派という線びき。多数派であるとか、少数派であるとか、そういったカテゴリーは見いだすものであって、それぞれに 本質的な要因があるわけではない。あくまで「見立て(みたて)」である。


 日本社会のなかで、「○○的」多数派であるとか、「○○的」少数派というものを 見いだすことはできる。しかし、なんのために。どのような必要があって。
 どうだろうか。



 たとえば、異性愛者と同性愛者という構図を たてる。なんのために。その線びきから こぼれおちるものも あるはずなのに。



 どうせ見いだすなら、異性愛中心主義という見立ては どうだろうか。こういう とらえかたは、いくらでも応用が きく。そして、じっさい問題として、それは見いだすことができるものである。日常化されているから。制度化されているから。


 国民主義国家主義。日本人中心主義。日本語至上主義。健常者中心主義。優生主義。などなど。


 もちろん、その すべてにカテゴリーの 線ひき問題はある。けれども、それは サッカーのオフサイドトラップのように、動的で、恣意的なものとして とらえたら いいことだ。基準の いいかげんさも ふくめて、権力的で、抑圧的だといえるのであり、問題にしていくことができる。


 佐藤裕(さとう・ゆたか)の『差別論』(明石書店、2005年)を 応用していえば、権力というのは、だれかを 他者化し、おとしめると同時に、自分たちを 「われわれ」として たちあげる。


 無意識に だれかを 他者化することもある。たとえば、なにかを つくったときに。それが だれでも つかいやすいとは いえないものであれば、あたりまえのように それを つかう ひとと、自由に つかえない ひとの差別を つくってしまう。


 いろんな不自由に直面している ひとが いる。一方で、そういった なやみに気づくことすらない ひとも いる。そこには非対称性がある。そういう「見立て」は わたしにとっては、必要なものなのだ。現実を とらえるために。そして、ものごとを よりよくするために。


 きゅうくつさを 感じることがないこと。それは自由であるということだ。摩擦が すくないということだ。消耗しなくて すむということだ。不自由なことは なくなりはしない。いくらでも見いだすことができるからだ。しかし、特定の ひとたちに 一方的に おしつけられる不自由は、なくしたい。わたしは なくしたいと おもっている。

自分なりの基準と、他人への まなざし。

 だれもが 自分を 基準にして ものごとを かんがえる。だれかのことを 自分の基準で 評価する。


 なにか社会問題について議論するとき、「あの人は体制に迎合的だ」「同化している」というふうに発言することがある。自分は そうではない、ほかの ひとたちは そうではないというふうに比較して、だれかの ありようを 否定的に 評価することがある。よくあることだ。


 ある程度は、そういうことも あっても いいのかもしれない。どこかで 線を ひいて、これだけは ゆずってはいけないはずだと主張することも あるだろう。けれども、冷静に かんがえてみると、支配的な 文化に 迎合的であるとか、同化しているとか、そういうことは だれしも あるわけだ。基準を ずらしてみれば、自分も そうだということになる。


 日常の生活のなかで、いろいろな選択肢があるなかで、なにかを えらぶ。なにかを することは、ほかの なにかを しないことだ。


 生活を ふりかえってみると、そして、「厳格な基準」に てらしてみると、自分だって ひとのことは いえないということになる。


 だから、ほかの ひとのことについて ああだこうだ いうべきではない、と いいたいのではない。自分の基準というのが、いかに恣意的で、ご都合主義的で、たまたま いまの自分に適合しているだけだということを、ふりかえってみる必要も あるだろうということだ。


 基準のハードルは、どこまでも きびしくすることが できる。きりがない。これだという合理的な基準はない。それなのに、たまたま いま、自分が もっともだと おもえるラインを 基準にして、ほかの ひとのことを ああだこうだ いっている。そういうことは、公平な態度とは いえないのではないか。そんなふうに感じる。