hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

せきこむ ひとの そばで。

 京都で 介助の仕事を するようになって、もうすぐ 6年になる。まあ、いろいろあるわね。


 ほかの介助者が していることを みていると、「わたしは やらないなあ」ということがある。たとえば、せきこんでいる ひとの背中を さする。わたしは しない。意味が ないように おもえるから。さすったら ましになるとは おもわないから。なります? どうだろう。


 せきこんでいる ひとの そばで、なにもしない自分、というのも、なんだか きまずいというか、よろしくないように 感じてしまう。そういう感情はある。なにもしないのか、と。



 で、最近 わかったのは、せきこんでいると、体ごと うごいてしまって、それが いちいち反動として しんどそうだということ。だから、そういうときは 背中に 手のひらを あてて、ささえることにした。反動が やすらぐと、ちょっと 楽だろうから。ちょっとは ましだろうから。


 こういうのは、たぶん、おたがいにとって いいこと。わたしも、自分のことを 冷淡だなんて おもわなくて すむ。意味のあることを していると 感じられる。そのひとも、ちょっとは楽になるだろう。よかった。

集団の とらえかた。問題の とらえかた。

 「日本人」にしても、なんにしても 人間を 集団で くくるとき、そのカテゴリーというのは ひじょうに あいまいなものである。明確に 線を ひけるものではない。けれども、なにか必要や目的があって、人間を 集団で くくることがある。たとえば、多数派と少数派という線びき。多数派であるとか、少数派であるとか、そういったカテゴリーは見いだすものであって、それぞれに 本質的な要因があるわけではない。あくまで「見立て(みたて)」である。


 日本社会のなかで、「○○的」多数派であるとか、「○○的」少数派というものを 見いだすことはできる。しかし、なんのために。どのような必要があって。
 どうだろうか。



 たとえば、異性愛者と同性愛者という構図を たてる。なんのために。その線びきから こぼれおちるものも あるはずなのに。



 どうせ見いだすなら、異性愛中心主義という見立ては どうだろうか。こういう とらえかたは、いくらでも応用が きく。そして、じっさい問題として、それは見いだすことができるものである。日常化されているから。制度化されているから。


 国民主義国家主義。日本人中心主義。日本語至上主義。健常者中心主義。優生主義。などなど。


 もちろん、その すべてにカテゴリーの 線ひき問題はある。けれども、それは サッカーのオフサイドトラップのように、動的で、恣意的なものとして とらえたら いいことだ。基準の いいかげんさも ふくめて、権力的で、抑圧的だといえるのであり、問題にしていくことができる。


 佐藤裕(さとう・ゆたか)の『差別論』(明石書店、2005年)を 応用していえば、権力というのは、だれかを 他者化し、おとしめると同時に、自分たちを 「われわれ」として たちあげる。


 無意識に だれかを 他者化することもある。たとえば、なにかを つくったときに。それが だれでも つかいやすいとは いえないものであれば、あたりまえのように それを つかう ひとと、自由に つかえない ひとの差別を つくってしまう。


 いろんな不自由に直面している ひとが いる。一方で、そういった なやみに気づくことすらない ひとも いる。そこには非対称性がある。そういう「見立て」は わたしにとっては、必要なものなのだ。現実を とらえるために。そして、ものごとを よりよくするために。


 きゅうくつさを 感じることがないこと。それは自由であるということだ。摩擦が すくないということだ。消耗しなくて すむということだ。不自由なことは なくなりはしない。いくらでも見いだすことができるからだ。しかし、特定の ひとたちに 一方的に おしつけられる不自由は、なくしたい。わたしは なくしたいと おもっている。

自分なりの基準と、他人への まなざし。

 だれもが 自分を 基準にして ものごとを かんがえる。だれかのことを 自分の基準で 評価する。


 なにか社会問題について議論するとき、「あの人は体制に迎合的だ」「同化している」というふうに発言することがある。自分は そうではない、ほかの ひとたちは そうではないというふうに比較して、だれかの ありようを 否定的に 評価することがある。よくあることだ。


 ある程度は、そういうことも あっても いいのかもしれない。どこかで 線を ひいて、これだけは ゆずってはいけないはずだと主張することも あるだろう。けれども、冷静に かんがえてみると、支配的な 文化に 迎合的であるとか、同化しているとか、そういうことは だれしも あるわけだ。基準を ずらしてみれば、自分も そうだということになる。


 日常の生活のなかで、いろいろな選択肢があるなかで、なにかを えらぶ。なにかを することは、ほかの なにかを しないことだ。


 生活を ふりかえってみると、そして、「厳格な基準」に てらしてみると、自分だって ひとのことは いえないということになる。


 だから、ほかの ひとのことについて ああだこうだ いうべきではない、と いいたいのではない。自分の基準というのが、いかに恣意的で、ご都合主義的で、たまたま いまの自分に適合しているだけだということを、ふりかえってみる必要も あるだろうということだ。


 基準のハードルは、どこまでも きびしくすることが できる。きりがない。これだという合理的な基準はない。それなのに、たまたま いま、自分が もっともだと おもえるラインを 基準にして、ほかの ひとのことを ああだこうだ いっている。そういうことは、公平な態度とは いえないのではないか。そんなふうに感じる。

本が でました:『ことばのバリアフリー』生活書院

単著が でました。税込みで 2160円です。


あべ・やすし『ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』生活書院


これまで かいてきた論文4本や、このブログで かいてきたことなどを 整理して まとめました。くわしい もくじは うえのページを みてください。


かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院の続編でも あります。



ジョディ・フォスター主演の『ネル』という映画が あります。今回、本を まとめながら、おもいだしていたのが あの映画です。ぜひ みてみてください。いい映画です。


「あれが できない」「これが できない」といって だれかを 非人間化してしまうことが あります。そういうことは やめたいし、やめるべきだと おもうのです。


あたりまえって なんだろう。なにが どうあることが、あたりまえなんだろうか。そういうことを といなおす本です。ことばは、大事なものなのだけど、人は、ことばを つかうことで、だれかを 排除していることだって あるのです。そうではない ことばの つかいかたって、あるんだろうか。ありえるんだろうか。どうだろうか。


コラム2は「だれでも参加できるじゃんけんとは」という内容です。2008年に このブログに かいた「じゃんけんのユニバーサルデザイン」を かきなおしたものです。


じゃんけんを いろんなものに あてはめて、かんがえてほしいのです。それが じゃんけんではなくて、選挙の投票だったら どうなのか。じゃんけんではなくて、漢字だったら どうなのか。テレビ放送だったら? 新聞だったら? いろんなテーマが あります。



ことばで 人を テストすること。それって、どういうことなんでしょうか。わたしには、それは いやなこと、やりたくないこと、ひどいことであるように おもえてしまうのです。それでも テストを するのであれば、なんのために、どのように テストを するのか、かんがえなくては いけないし、説明することが できないと いけない。そんなふうに おもいます。


ことばやコミュニケーションについて、だれが どのようなことを 論じているのか。どんな問題があると いわれているのか。そういったことを くわしく整理して、自分なりの意見を まとめてみました。ぜひ よんでください。



10年まえの関連記事:

はなしが ちがうじゃないか!(研修生制度も、わかりやすいニュースも)

 社会のなかで流通している情報というものは、そのままでは わかりにくいことが あります。ことばづかい、内容そのものが むずかしい。あるいは、文脈や背景の知識がないと わかりにくい。そういうことが あります。そこで、情報を みんなに とどけるために、かみくだいて説明する 必要が でてきます。


 たとえば、あたらしい法律が できたとき。その法律を わかりやすく説明するパンフレットを つくる。


 ひとつ 例を あげます。2016年 4月1日に、障害者差別解消法が施行されます。内閣府のページを みてください。


内閣府「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」


 うえのページを みると、法律の本文や概要などは「るびつき」PDF、「るびなし」PDF、テキストファイルの 3種類が 用意されています。ふりがなが あれば よみやすい人、ふりがなは ないほうが いい人、PDFファイルではなく テキストファイルが いい人、そういったニーズに対応しているわけです。


 「障害者差別解消法リーフレット」も つくって、さらに「わかりやすい版」を 用意しています。


 こんな とりくみを どんどん ひろげていこう! ことばの かべを とりのぞいて、大事なことを みんなに 知ってもらおう!


 政府が ながす情報だけじゃなくて、テレビのニュースや新聞も、わかりやすくする必要があります。バリアフリーにしていかないと いけません。



 ここで みなさんに宣伝したいのが、NHK「ニュース ウェブ」の わかりやすい版です。「ニュース ウェブ EASY(イージー)」と いいます。名前が 英語で わかりにくい! だけど、中身は よく できてます。工夫してあります。


 NHKは、「ニュース ウェブ イージー」を つぎのように説明しています。

「NEWS WEB EASY」は、小学生・中学生のみなさんや、 日本に住んでいる外国人のみなさんに、わかりやすいことばでニュースを伝えるウェブサイトです。


 わたしは、NHK「ニュース ウェブ イージー」は いいなあ、大事だなあと おもっているので、『マイノリティの社会参加―障害者と多様なリテラシー』という本でも 紹介しました(第10章「情報のユニバーサルデザイン」)。


 それで、ですね。きょう、研究会で「ニュース ウェブ イージー」が話題になったんですね。で、そのとき、つい先日(3月26日)、ウェブで おおきく話題になった「”コンビニを外国人実習生の職種に” 協議へ」というニュースが、わかりやすく説明されているのを 知ったんです。どんなふうに説明してるんだろう?と 気になったわけです(すべてのニュースの わかりやすい版が つくられているわけではありません)。


 もとの記事と わかりやすい版「外国人がコンビニの仕事を習うことができるようにする」を みてみました。みなさんも、どうぞ。



 おかしい…。内容が ちがうように みえる…。


 気になったポイントは つぎの ふたつです。

  • 「コンビニの「店舗運営管理」」を 「コンビニの店の経営のしかた」と表現している。
  • 「国内のコンビ二の人手不足を補う目的に利用するのではないか」という「批判も予想される」ことと その対策の説明を はぶいている。


 一般に、コンビニの店舗運営管理というと、「コンビニを まわすこと」=「現場の仕事」ですよね。ちがいますか?
 一方、「お店の経営」だと、現場に でない場合も ありますよね。わたしは、経営というと、「本社に いる人」とか「社長」を イメージします。
 ちなみに、ニュース ウェブ イージーの ことばの説明を みると「事業をやっていくこと」とあります。


 こういう いいかえと省略は、ニュースを わかりやすくしているというよりも、「ごまかしている」というふうに感じてしまいます。べつに、意図的に ごまかしているとは おもっていません。でも、結果的に そうなっていると おもいます。


 はなしを まとめます。気になったのは、つぎの ふたつです。

  • 外国人実習生制度は、国際協力のための制度であり、日本企業の海外戦略のために利用するのは おかしい。制度を ねじまげて、悪用しようとしている。
  • わかりやすく説明するためのページなのに、誤解を あたえる内容になっている。問題点を はぶいている。


 日本政府は、外国人研修生制度を ねじまげて運用してきたと わたしは おもいます。人手不足を 解消するための道具にしてきたと おもいます。
 NHKに対しては、なにもかも ねじまげて報道してきたというふうには おもっていません。問題、批判すべき点は あるけれども、公共放送として、役割を はたそうとしていると おもっています。だからこそ、わかりやすい ことばで ニュースを つたえるという とりくみも、評価しているわけです。でも、今回の件は びっくりしました。こんな つたえかたを してしまえば、何重にも、「はなしが ちがう!」ということになるからです。


 わかりやすく つたえるということは、どういうことなのか。わたしが、わかりやすい版を つくるなら、どういうふうに表現するのか。かんがえてみたいと おもいます。
 NHKの みなさんも、あらためて かんがえてみてください。


関連記事:

追記:補足すると、わかりやすい版の記事名は「外国人がコンビニの仕事を習うことができるようにする」なので、いかにも「現場の仕事」を イメージさせますが…。「経営」は やっぱり おかしいだろうと おもいます。また、記事名としての情報量も、不十分だと感じます。